67歳でたどり着いた「信じる」という愛|恋を重ねて、見えてきたもの③

※このブログでは、60代の私が、これまでの生き方・日常・身体・性などについて、正直な言葉で綴っています。

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返事が遅い。

会える日が延びる。

いつもと様子が違う。

そんな小さな変化に心が揺れ、「何かあったのでは」と考えてしまう。

でも67歳になった今、思うことがあります。

恋は、相手を疑わないことではなく、信じ続ける覚悟なのかもしれない、と。

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若い頃は「確認」が愛だと思っていた

私は42歳の時に、初めて既婚の恋愛をしました。

東京と大阪での恋でした。

朝、東京を出発しても、関西に到着するのはお昼です。

簡単に会える距離ではありません。

毎日のメールで日々をつなぎ、数カ月に一度のデートで気持ちをつなぎあう。

そんな付き合いをしていました。

会えないからこそ、お互いに誠実でいよう。

そんな思いで毎日を過ごしていました。

でも、なかなかお互いの生活を目にできないとはつらいものです。

「今、何してるの?」

「誰といるの?」

「その日は会えないと言ったけど、本当に仕事なの?」

言葉にはしませんでしたが、そんな確認を繰り返していたように思います。

ただ、私が彼女の心の真ん中にいることを確認したかっただけなのです。

でも、本当は相手を信じ切れていなかった。

あの頃は、お互いに信じたいのに信じ切れなかったのだと思います。

とある日曜日にメールをもらったことがあります。

それはデートの約束をドタキャンした日のことです。

「休日出勤、お疲れ様。
 いつ頃、終わりそう?」

私は仕事に夢中で、メールの返信ができませんでした。

メールに気が付いたのは夕方です。

そこには、こんなメールがありました。

「本当に仕事だったの?
 すごくさびしい」

信じるには時間が必要だった

現在、私は二度目の既婚の恋愛をしています。

同じ東京での恋です。

つきあいは既に17年になります。

現在は、お互いがそれぞれの心の真ん中にあることを信じあっています。

でも、最初から信じられたわけではありません。

何百通ものメール。

何百回もの電話。

何十回ものデート。

その積み重ねが現在の「信頼」になりました。

信頼は一日で生まれるものではありません。

信じるとは、放っておくことではない

信じることは、

何も気にしないことではありません。

相手を思う。

心配する。

でも最後は、

「きっと大丈夫」

と思えること。

その安心感が、恋を長続きさせます。

私たちはコロナ禍で3年間、会うことができませんでした。

私は重いドライアイを患い、一時は失明を覚悟するほどでした。

彼女の存在を家族に知られてはいけないと思い、メールアドレスを含め、彼女とのデータをすべて消してしまいました。

治療を続け、ようやく落ち着いた頃、私は彼女へ連絡する手段を失っていることに気付きました。

そんなある日、一通のメールが届きました。

「お元気ですか?」

その一文だけで、胸の奥にしまっていた想いが、一気によみがえりました。

それでも不安になる日はある

さまざまな出来事を経て、お互いが大切な存在になり、「信じられるようになった」と言っても、人間だから不安になる日もあります。

会えない日。

体調が悪い日。

相手の家族の事情。

将来が見えない日。

私たちは言葉にして、お互いの気持ちを確かめ合ってきました。

日々のメールで、そして、直接の会話で。

人間は言葉にすることで安心できる生き物だと思います。

言葉で気持ちを確かめ合い、抱きしめ合う。

そんな時間が、私たちの信頼を少しずつ育て直してくれます。

信頼は、一度築けば終わりではありません。

日々の言葉や思いやりで育て続けるものなのだと思います。

私たちも、まだ完璧ではありません。

67歳で思うこと

若い頃は、

愛とは「求めること」だと思っていました。

でも今は違います。

信じること。

待つこと。

安心を与えること。

その積み重ねが愛なのだと思います。

だから私は今日も、

彼女を信じています。

会えない日があっても、

返事が遅くても、

それだけで疑うことはありません。

17年という時間が、

私に「信じる強さ」を教えてくれたからです。

恋とは、

相手を縛ることではなく、

自由なまま信じられることなのかもしれません。

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