
私は、どこかで思い込んでいました。
セックスは、最後までいってこそ満足できるものだと。
男である私にとって、その「最後」は射精です。
彼女と身体を重ね、彼女の中で最後までいく。
そこまでたどり着けば、私は満足します。
支配欲が満たされます。
そして彼女も、それを喜んでくれる。
だから私は、彼女の中で最後までいくことを、二人のセックスの一つのゴールのように考えていました。
ところが、年齢を重ねると、いつも同じように身体が応えてくれるわけではありません。
ある日のデートで、私は最後までいくことができませんでした。
私の中には、
「今日はちゃんとできなかった」
という気持ちが残りました。
でも彼女は、まったく違うことを言ったのです。
「いいのよ。私は満足したから」
その言葉は、私が考えていた「セックスの満足」を少し変えることになりました。
その日は、最後までいけなかった
その日も、いつものように二人きりで過ごしていました。
何気ない話をする。
抱き合う。
彼女の身体に触れる。
彼女の反応を感じながら、急がずに肌を重ねていく。
いつもと変わらない、二人の時間でした。
でも、その日は最後までいけませんでした。
勃起できなかったわけではありません。
挿入できなかったわけでもありません。
ただ、射精までたどり着けなかったのです。
ときどき、こういうことがあります。
年齢なのか。
体調なのか。
気持ちの問題なのか。
自分でもよく分かりません。
ただ、そのときの私は、原因よりも別のことを気にしていました。
彼女を満足させられなかったのではないか。
せっかく二人で身体を重ねたのに、自分が最後までいけなかった。
私には、どこか中途半端に終わってしまったような感覚がありました。
だから彼女にも、申し訳ないような気持ちになったのです。
「いいのよ。私は満足したから」
そんな私に、彼女はあっさりと言いました。
「いいのよ。私は満足したから」
私は少し意外でした。
自分では「最後までできなかった」と気にしている。
ところが彼女は、そこをほとんど問題にしていないようでした。
私には、それがすぐには理解できませんでした。
私が射精していないのに、本当に満足なのだろうか。
そんな気持ちもありました。
すると彼女は、私の身体に寄り添ってきました。
そして、胸に顔をうずめるようにしながら言いました。
「こうしているだけで幸せ」
その言葉が、心に残りました。
私は「最後」を見ていた
考えてみれば、その日の二人の時間に、何もなかったわけではありません。
二人で話しました。
抱きしめました。
キスをしました。
肌と肌を重ねました。
私は彼女の身体に触れ、彼女の反応を感じていました。
彼女も私に身体を預けてくれました。
二人で気持ちのいい時間を過ごしていたのです。
それなのに私は、
最後までいけたか、いけなかったか。
そこにばかり気持ちが向いていました。
射精できなかった。
だから、きちんと終われなかった。
だから、彼女も物足りなかったのではないか。
私の中では、そんなふうにつながっていたのでしょう。
でも彼女は違いました。
彼女が見ていたのは「最後の一瞬」だけではなかったのだと思います。
抱きしめられたこと。
優しく触れられたこと。
肌のぬくもりを感じたこと。
好きな人のそばにいたこと。
そして、二人でゆっくり過ごしたこと。
それらを全部含めて、
「私は満足したから」
だったのでしょう。
もちろん、最後までいければ嬉しい
だからといって、射精できてもできなくても同じ、ということではありません。
私は、できるなら彼女の中で最後までいきたい。
それは男としての快感だけではありません。
好きな女性と身体を重ね、そのまま最後までいけたときには、私なりの大きな満足があります。
そして彼女も、それを喜んでくれます。
二人でそこまでたどり着けた日は、やっぱり嬉しい。
だから、
最後までいくことに意味がない
とは思いません。
意味はあります。
ただ、それが、
二人が満足するための絶対条件ではなかった。
私が彼女から教えられたのは、そこでした。
彼女の満足と、私の満足は同じではなかった
私は長い間、自分の感覚をそのまま彼女にも当てはめていたのかもしれません。
自分が最後までいけば満足する。
だから彼女も、私が最後までいけば満足する。
逆に、自分が最後までいけなければ、彼女もどこか物足りないはずだ。
でも、そんなに単純ではありませんでした。
もちろん、これは女性全体について言っているのではありません。
女性が何をもって満足するのかは、人によって違うでしょう。
あくまで、私と彼女の場合です。
長く付き合ってきた彼女でさえ、私は分かっているつもりで、分かっていないことがありました。
彼女には、彼女の満足がある。
私には、私の満足がある。
そして、その二つは完全に同じでなくてもいいのです。
考えてみれば、当たり前のことなのかもしれません。
でも私は、その日の彼女の言葉を聞くまで、きちんと分かっていませんでした。
「こうしているだけで幸せ」
セックスが終わったあと、二人で裸のまま過ごす時間があります。
すぐに離れるわけではありません。
彼女が私の胸に顔をうずめる。
私は彼女を抱きしめる。
そのまま何気ない話をすることもあります。
私は、そんな時間も好きです。
彼女の、
「こうしているだけで幸せ」
という言葉を聞いてからは、その時間の意味を以前より少し考えるようになりました。
私にとってセックスのゴールだと思っていたところを過ぎても、彼女にとって大切な時間は続いていたのかもしれません。
いや、私にとっても本当はそうだったのでしょう。
ただ私は、
「最後までいけた」
ということを、一つの区切りとして強く意識しすぎていたのだと思います。
最後までいけなかった日も、二人の時間だった
以前の私なら、自分が射精できなければ、
「今日はダメだった」
と思っていたでしょう。
今でも、残念に思うことはあります。
できるなら、やっぱり最後までいきたい。
でも、それだけでその日のセックス全部を「失敗」にすることはなくなりました。
彼女が教えてくれたからです。
「いいのよ。私は満足したから」
そして、
「こうしているだけで幸せ」
私は最後までいけたかどうかを気にしていました。
彼女は、二人で過ごした時間そのものにも満足を感じていました。
その違いに気づけたことは、私には大きなことでした。
最後までいければ、もちろん嬉しい。
でも、いけなかったからといって、抱きしめたことまでなくなるわけではありません。
肌のぬくもりも消えません。
二人で気持ちよく過ごした時間もなくなりません。
そして何より、
好きな人と身体を寄せ合っていたことは変わらない。
セックスの満足には、一つだけのゴールがあるわけではない。
67歳になった私にそれを教えてくれたのは、医学書でも、誰かの恋愛論でもありませんでした。
最後までいけなかったその日、
私の胸に顔をうずめながら、
「こうしているだけで幸せ」
と言った彼女でした。

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