
40歳代で出会い、そして別れた彼女。──「恵」
「history with 恵」では、彼女との歴史を綴っていきます。
私はデートの場所を法隆寺に指定したことがありました。
付き合い始めて、しばらく経った頃だったと思います。
今回の歴史は、法隆寺駅から始まります。
法隆寺へ
「なんで法隆寺なん?」
恵が少し不思議そうな顔で関西弁を混ぜながら聞いてきます。
「俺、法隆寺が好きなんだ」
私には、聖徳太子への淡い憧れがありました。
梅原猛の『隠された十字架』を読んでから、すっかり太子ファンになってしまったのです。
恵とは、これまでにも何度か奈良を散策しました。
この日は法隆寺駅から狭い歩道を抜け、ゆっくりと寺へ向かいます。
途中、珈琲の香りを漂わせる小さな店がありました。
曳きたての豆の匂いに、思わず足が止まります。
「帰りに寄ろうね」
そう言いながら、私たちは先に法隆寺を目指しました。
もう15年以上前なので、スマホのナビなどまだ一般的でなかった頃。
地図だけが頼りです。
「向こうじゃない?」
「いや、こっちヤン」
恵の関西弁は、迷うほどに強まります。
やがて、視界の奥に五重塔が姿を現しました。
「あっ、あれじゃないの?」
「そうよ。あれよ。たどり着けたのは私のおかげね」
勝ち誇った笑顔。
その笑顔に、私もつられて笑ったのを覚えています。
コーヒー店
帰り道、行きに見つけたコーヒー店へ立ち寄りました。
「ショップ」と呼ぶには少し素朴で、数人入れば満席になるような店です。
ブラックを2つ注文すると、ふわりと広がる深い香り。
ほどなくして運ばれてきたカップからは、驚くほど豊かな湯気が立ち上ります。
「うん、おいしいね」
恵が関西弁のイントネーションで話します。
一口飲むと、驚くほどまろやかで、雑味がない。
もしかすると、恵と飲んだからかもしれません。
法隆寺駅へ
美味しいコーヒーに満たされながら、ふたりで駅へと戻ります。
行きは遠く感じた道も、帰りは不思議と近く感じるものです。
「あのね、会社の後輩が恋愛中なんやて。手を出してくれへんって悩んでるらしいわ」
突然始まる、完全な女子トーク。
「女同士って、そんなところまで話すんだなぁ」と感心しながら聞いていました。
「私はあなたで満たされてるからね。『がんばってね』って答えたわ」
そう言うと、恵は自然に私の腕へ絡んできます。
その体温が、やけに心地よかったのを覚えています。
難波へ
「これからどうする? 俺、難波を通って帰るよ」
「私も行く」
難波駅に降り立つのは、このときが初めてでした。
「食べたい」
恵のその一言で、ふたりの足は串カツの店へ向かいました。
「ソース二度付け禁止やで」
恵に言われるまで、そのルールも知りませんでした。
大阪という土地の小さな文化に触れた気がして、
どこか嬉しかったのを覚えています。
店を出てからも、恵は腕を絡めたまま離しません。
「さっきすれ違ったおっちゃん、変な目で見てたわ」
「いいじゃん、別に」
そう答えると、恵は少し照れたように笑いました。
40代の男女が腕を組んで歩く姿は、たしかに目を引いたのかもしれません。
法隆寺 コーヒーの香り
今でも、「法隆寺」と耳にすると、あのコーヒーの香りを思い出します。
恵と飲んだ、あの大人の味。
恵も思い出してくれるだろうか?
恵との “歴史” のひとつです。

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