道ならぬ恋 ― 心の置き場所を求めて

道ならぬ恋

私はこれまでに、道ならぬ恋を二度経験してきました。

最初の恋はメル友サイトがきっかけで始まりましたが、

彼女が私との未来を思い描くようになり、やがて結婚を夢見るほどの気持ちへと変わっていきました。

その思いに応えられなかった私は、彼女からの別れによって関係を終えることになりました。

二度目の恋は、母の介護の相談をしたことがきっかけでした。

「はじめに」で触れたように、

私は配偶者と意思疎通ができず、長い間苦しんでいた時期でした。

その寂しさを埋めるように、気がつくと彼女の存在が私を支えてくれていました。

この恋は、今も続いています。

不思議なことに、二人の女性に共通していたのは、

それぞれが配偶者との関係に深い悩みを抱えていたことです。

お互いに夫婦関係の中で行き場をなくし、心を持て余していた者同士の恋でした。

結婚という制度と、こぼれ落ちる心

縁あって夫婦となり、同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、家族になっていく。

戸籍という制度は、そうした営みを前提として成り立っています。

昔は一夫多妻制だったとか、性のあり方が今とは違っていたと語られることもあります。

でも、人の心はひとりの相手と向き合うことで落ち着くものなのだと私は思います。

そんな私が道ならぬ恋について語るのはお門違いかもしれません。

しかし現実には、彼女たちと手をつないで公園を歩いたり、買い物をしたり、

人目につく場所で自然に笑い合うことはできませんでした。

想いがあっても、昼の光の中では隠さざるを得ない関係でした。


離婚は悪なのか

私が道ならぬ恋に踏み出した理由は、「離婚を避けたい」という思いからでした。

しかし今振り返ると、

それは私自身の都合のよい解釈で、大きな誤りだったのかもしれません。

幼い頃、両親は離婚と復縁を繰り返し、そのたびに私は転校を余儀なくされました。

その経験が離婚という選択肢を極端に遠ざけることにつながっていました。

けれど、配偶者と心が通わず、努力しても報われず、苦しさだけが積み重なっていった時期を思い返すと、

あの時に決意していたほうが、むしろ心穏やかに過ごせていたのではないかとも感じるようになりました。


必要悪という言葉の重さ

家庭としての形は保っています。

子どもたちには父と母がいて、孫たちには祖父母がいて、外から見れば「整っている家庭」です。

しかし、日々の生活は穏やかに過ぎていくとはいえません。

配偶者との会話はすれ違いが多く、空気が殺伐としてしまうこともあります。

その一方で、彼女の存在は私の心を支える大きな要素になっています。

とはいえ、その関係に後ろめたさがまったくないわけではありません。

自分を納得させるための「必要悪」という言葉が、今の私を踏みとどまらせているのも事実です。


理想と現実のあいだで

本来であれば、配偶者と仲良く添い遂げることが理想です。

その思いを胸に、私はこれまでの人生を過ごしてきました。

しかし、殺伐とした結婚生活を平穏に装いながら続けることは、どうしてもできませんでした。

人は誰かに心の居場所を求めてしまうものです。

私も例外ではありません。

理想は理想であり、現実は現実です。

その間で揺れながら、離婚という選択肢も含めて、これからの生き方を静かに見つめ直しているところです。

そして――
次回からは、再び恵との話に戻っていきます。

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